最近、MTFの高校生と思われる人のこんな投稿を見かけた。
普通に街中でスカート履いてる人、セーラー服とかブレザーとかの制服着てる人見てるだけで自分が生きる価値無いように感じる。女子に生まれただけで何も不自由なく好きな服着れるしスカート履いて学校も行けてた。2分の1で女子に生まれられるのに…本当にもう生きるのが辛すぎる。
私もこう思うことが少なからずあった。
また私の経験からこの投稿には「スカートを履けない自分は男として確実に見られているのが嫌だ」という心情も含まれていると思う。
この投稿に対し、
「その代わり女だったら性的に嫌なことされるよ」
「今は男のスカートだって流行ってるから大丈夫だよ」
「私は女性だけど逆にスカートはくのが嫌だったから気持ちわかるよ」
と反応が返ってきていた。
私はそれを読んで、ものすごくイライラした。
トランスジェンダーについてみんな知ったかぶりしすぎ
まず、このMTFの高校生の呟きは、単に「異性装がしたい」とか「同性装がしたくなかった」っていう表面的な話ではない。
ジェンダーアイデンティティーと自分の身体的な性が一致していないのがジェンダーアイデンティティー障害(GID)の本質だ。
GIDはスカートをはくとかはかないとかいう服装の好みの問題を超えた、もっと深いところにある苦しみなのに、それをまるで理解していない人が多すぎる。
例えば、「女だったら嫌な目に遭うよ」と返す人。
確かに女性が受けるセクシャルハラスメントや性暴力は深刻な問題だ。
でも、それを「だから女じゃない方がいいでしょ」みたいに言われても、この高校生の気持ちとは全然噛み合わない。
この子が言ってるのは、「女として生まれたかった」という自分のジェンダーアイデンティティーに関わる話であって、女性が受けるリスクの有無とは別の次元の問題だ。
リスクがあるからといって、自分の性別への違和感が消えるわけではない。一体どうしてそんな的外れな返ししかできないんだろうか。
また、「男のスカートも流行ってるよ」と言う人もいるが、それもズレてる。
今、ファッションとして男性がスカートをはくことが一部でトレンドになってるとしても、それはあくまで「選択肢としての自由」でしかない。
生物学的女子学生がスラックスを履くことを認めている学校は多いが、生物学的男子学生がスカートを履くことを認めていない学校が多い。
また仮に流行っているからといって、いまだにスカートは確実に女性性が強いジェンダー規範であることに変わりはない。
普通の女性にとってスカートを履くことはファッションの一部だろう。
しかしMTFにとって、スカートを履くことは簡易的に「自分のジェンダーアイデンティティを表現する手段」であり、ましてや制服といった二元化された対象にあっては、スカートはそれ以上の存在となりうる。
そもそも、MTFを「男」の一種として扱っているところから論外である。
そして一番腹が立つのが、「私も学生の頃スカート履くの嫌だったよ」と共感したつもりになってる女性たちの態度だ。
確かに、女子制服のスカートに不満を持つ女性は少なくない。
暑い日も寒い日もスカート強制とか、動きづらいとか、痴漢のリスクとか、理由はいろいろあるだろう。
私でも、スカートよりズボンが適切だと思った場面は多数ある。
しかし、そういう「制服が嫌だった」という経験と、ジェンダーアイデンティティーの不一致からくる苦しみを同列に語るのは、あまりにも安易すぎる。
そういう人たちの他のツイートを覗いてみると、普通にシス・異性愛規範の中で生きてたり、結婚してたり、子供をもうけてたりするケースが目立つ。
社会が期待する「像」にしっかり収まって生きてる人が、服装のことだけ切り取って「わかるよ」って言っているのは、すごく浅はかに見える。
考えてみてほしい。
結婚して子供を産むということは、多くの場合、伝統的なジェンダーロールに沿った生き方である。
それが悪いとは全く思っていないが、そういう規範の中で安定した人生を送ってる人が、「私もスカート嫌いだったから気持ちわかる」なんて簡単に言う資格は断じてない。
MTFの高校生が感じてるのは、スカートを履けない不満だけではなく、自分の性別が「自分じゃない」っていう根源的な違和感だ。
学校で男子制服を着なきゃいけないとか、周りから「男」として扱われるとか、そういう日常のあらゆる場面で、自分を偽って生きなきゃいけない苦しみがある。
それを「私も制服嫌いだったよ」で済ませられる話じゃない。
ジェンダー規範と中高年トランス
ここでさらに思うのは、ジェンダー規範にある程度不満を言わず人生を進めてきた「結婚+子持ちの中高年トランス」の存在についてだ。
私は正直、そういう人たちに懐疑的な目を向けてしまう。
例えば、若い頃は自分のジェンダーアイデンティティーに違和感を感じつつも、周囲の期待に応えるために異性と結婚し、子供を育ててきたようなトランスジェンダーの人たちがいるかもしれない。
でも、そういう人たちが後になって「実は私もトランスだった」とカミングアウトしてくるのを見ると、複雑な気持ちになる。
なぜかと言うと、彼らはある意味でジェンダー規範の枠内で「安全」に生きてきたわけだ。
社会的な承認を得やすい結婚や子育てを経験しつつ、その裏で自分のアイデンティティーを隠してたいたことになる。
隠してる間は苦しかっただろうし、カミングアウトする勇気もすごいと思う。
でも、規範から完全に外れるリスクを負わず、むしろその恩恵を受けながら生きてきた人が、規範に縛られて苦しむトランスジェンダーの気持ちを本当に理解できるのかなって疑問に思う。
もちろん、そういう中年トランスの人たちが「自分はこうやって妥協してきたから、若い子には自由に生きてほしい」と応援する気持ちはあるのかもしれない。
でも、私にはどうしてもそれが「後出しジャンケン」みたいに見えてしまう。
私が懐疑的な理由はほかにも、そういう人たちが新しい規範に適応する選択をしたことで、逆に若い世代が感じるプレッシャーを間接的に強めてる可能性があるからだ。
まとめ
今回の一連の流れを見てると、結局ジェンダーの問題を「自分に都合のいい範囲」でしか考えられない人が多いんだなって思う。
結婚して子供を育ててるような人たちが、規範に守られてる立場から「私も大変だったよ」なんて言うのは、ズルすぎる。
彼らは規範から外れるリスクを負わずに生きてきてるわけで、その安全圏から「共感してるよ」って言われても、こっちは全然救われない。
むしろ、「あんたにはこの気持ちわかんないよ」って突き放したくなる。
この高校生の呟きには、スカートを履くこと以上の意味がある。
性別が一致しないがゆえの違和感や、社会の中で「自分らしくいられない」苦しみが込められてると思う。
それを「男でもスカートはけるよ」とか「女だって嫌なこともあるよ」なんて軽い言葉で片付けられるのは、問題の本質を見ようとしない態度そのものだ。
服装の好き嫌いの話じゃない。アイデンティティーの話なんだ。
もっとちゃんと聞いて、考えてほしい。
それができないなら、黙っていてください

