はじめに
トランスジェンダー女性(MTF)は、シスジェンダーの女性に比べて性産業に従事する割合が高いと指摘されている (PRO0165 - Evidence on Prostitution)。
例えば米国の全国調査では、トランスジェンダー全体の約13%が生涯に何らかの性産業で働いた経験があると報告されている (Transgender sex workers - Wikipedia)。
特にトランス女性はトランス男性よりも性産業に関与しやすく、国際的な複数の研究からトランス女性の24%~75%が生涯で性産業に従事したことがあるとの報告もある(Transgender sex workers - Wikipedia)。
本論文では、この現象の一因として、「幼少期から思春期・青年期にかけて、心の性別に沿った十分な愛着やコミュニケーションが形成されなかったこと」が影響している可能性について仮説的に考察した。
ジェンダー研究、トランスジェンダー研究、発達心理学や愛着理論の知見、および関連する統計や先行研究を踏まえ、この仮説の妥当性と限界を検討した。
背景:トランス女性と性産業を取り巻く状況
まず、トランス女性が性産業に従事する割合が高くなる背景には、社会的・経済的要因も大きく影響している。
差別や就労機会の制限、貧困などの構造的な問題により、トランス女性は従来型の職に就くことが難しく、結果的に収入を得る手段として性産業を選ばざるを得ないケースがある(PRO0165 - Evidence on Prostitution)。
例えば、英国の調査でも「トランスの人々(特にトランス女性)は、シスジェンダーの同年代より不均衡に高率で性産業に従事している」と報告されており、その主因として一般雇用における差別やトランスコミュニティの高い貧困率が指摘されている (PRO0165 - Evidence on Prostitution) (PRO0165 - Evidence on Prostitution)。
さらにトランスジェンダーの若者はホームレス状態や不安定な住居状況に陥りやすく (PRO0165 - Evidence on Prostitution)、これも性産業への流入リスクを高める要因である。
実際、トランス女性が性産業に関与する理由には生計上の必要性が顕著である。
ある研究によれば若年のトランス女性が有償の性行為(売春など)に従事する主な理由は、「他の職よりも良い収入が得られる」(53%)、「性別に対する差別のため他の仕事に就けない」(28%)、「生活のためやむを得ず(サバイバルセックス)」(25%)等が上位を占めている ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC )。
中には「性別適合手術やホルモン治療の資金を早く稼ぐため」や「コミュニティの一員でいたい」といった声もあるが ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC )、多くの場合は差別や貧困による「生きるための手段」として性産業を選択していることが窺える。
仮説の提示:愛着形成不足と性産業従事の関連
上記のような社会的・経済的背景に加え、本論文が検討する仮説は心理的・発達的視点からのものである。
それは「幼少期から思春期・青年期にかけて、心の性別に沿った十分な愛着やコミュニケーションが形成されなかったことが、トランス女性の性産業従事率を高める一因になりうるのではないか」という仮説である。
ここで言う「愛着やコミュニケーションの形成不足」とは、トランス女性が子ども時代に自分の認識するジェンダー(心の性別)を家族や周囲から受け入れられず、ありのままの自分として安心して愛情を受け取ったり意思疎通したりする経験が欠如した状態を指す。
この仮説に基づけば、幼少期の愛着形成の不全(特にジェンダーを巡る不一致や否定的対応)は、自己肯定感や対人関係の在り方に長期的な影響を及ぼし、その結果として一部のトランス女性が社会の周縁で生計を立てざるを得なくなり、性産業への従事につながっている可能性がある。
仮説検証
家庭・養育環境とトランスジェンダーの発達
発達心理学と愛着理論の観点から、幼少期の安定した愛着関係は健康な心理社会的発達に不可欠である。子どもは養育者から無条件の愛情と受容を得ることで安心感を築き、自身や他者への信頼感(基本的信頼感)を形成する。しかしトランスジェンダーの子どもは、その心の性別を否定されたり、周囲から理解を得られなかったりすると、この基本的な安心感の形成が阻害される可能性がある。
愛着理論によれば、幼少期に養育者との安定した愛着が築けない場合、子どもは不安定型(不安や回避傾向など)の愛着スタイルを発達させることがあるとされる Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC ) ( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )
実際、トランスジェンダー当事者を対象とした研究は少ないものの、既存の調査によればトランスジェンダーの人々には不安定な愛着スタイルが高頻度で見られる ( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )。
Giovanardiら(2018)はトランス女性のサンプルで不安定(回避型・不安型)や無秩序型の愛着が高い割合を占めることを示しており、さらに最近の研究ではトランス女性の87.3%が不安定な愛着スタイルを持つと報告されている( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )。
これらの所見は、トランスジェンダーの子どもたちが成長過程で十分な心理的安心感や愛着形成に恵まれないケースが多い可能性を示唆している。
また、近年の研究は家族からの受容や拒絶がトランスジェンダー青年のメンタルヘルスや社会的適応に重大な影響を与えることを明らかにしている。
家族から拒絶されたトランスジェンダーの若者は、抑うつや自殺念慮、生活の不安定さが悪化する傾向があり、一方で家族の受容や支援は保護的な役割を果たしている(Unseen, part 4: Trans female youth face greatest risk of sexual abuse and exploitation | GBH)。
家族からの拒絶はときに青年期以降の生活基盤を揺るがし、10代での家出やホームレス化を招くこともある。
その結果、トランス女性は10代のうちに「生き延びるための手段」として性産業に足を踏み入れてしまうケースが少なくない。
実際、ボルチモアで行われた調査では、トランスジェンダーの女性の性労働者のうち過半数(56%)が未成年(18歳未満)の時に性産業に関与し始めていたのに対し、シスジェンダーの女性ではその割合は19%に留まっていた ( Resilience among cisgender and transgender women in street-based sex work in Baltimore, Maryland - PMC )。
トランス女性の方が遥かに若年で性産業に入る傾向が強いことは、裏を返せば彼女たちが家庭や学校に居場所を持てず、早い段階で社会的保護から逸脱してしまった可能性を示している。
家庭内で心の性別を否定され、居場所を失った若者が路上に出ざるを得ず、その延長線上で売春や取引的な性行為(いわゆるサバイバルセックス)に巻き込まれる――これは当事者コミュニティや支援団体からも繰り返し報告されている現実である ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC )。
ある研究は、「家族からの拒絶や児童養護システムでの虐待に直面した若年トランス女性にとって、サバイバルセックスは最善の選択肢になり得る」と指摘している ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC )。
言い換えれば、幼少期・青年期に適切な愛着関係や支えを得られなかったことが、彼女たちを生き延びるために性産業へと向かわせている可能性があるのだ。
心理的影響と性産業従事の関連
愛着形成の不全は、その人の自己イメージや対人関係のパターンに影響を及ぼす。
幼少期に自身のジェンダーを否定され続けたトランス女性は、「本当の自分は愛されないのではないか」という根源的な不安や孤独感を抱えやすくなるかもしれません。このような不安定な愛着スタイル(例:見捨てられ不安や対人回避傾向)は成人後の精神的な健康にも影響し、うつ病や薬物依存のリスクを高めるとされている。( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC ) ( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )。
実際にMTFのトランス女性で性産業に従事した経験のある人々を対象とした研究では、幼少期の虐待経験と成人後の抑うつ・物質乱用傾向との関連が報告されてるが、安定した愛着があればそうした悪影響が緩和される可能性も示唆されている ( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC ) ( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )。
すなわち、幼少期にたとえ逆境(虐待やトラウマ)があっても、その後に誰かとの間で安心できる愛着関係を築くことができれば、悪循環に陥らずに済む可能性があるということだ。
しかし現実には、トランス女性が家族から拒絶されて社会的孤立に陥った場合、その後も安定した人間関係や支援ネットワークを得にくい状況が続くことが多い。
その結果、孤立無援のトランス女性は、他に頼れるものがない中で生計を立てたり承認を得たりする手段として、性産業に流れ込みやすくなる。
性産業の世界では、主流社会から阻害されたトランスジェンダーの人々が比較的受け入れられやすい側面もある。
歴史的にも、トランス女性のコミュニティが形成される場としてストリートや売春コミュニティが機能してきた経緯があり、そこではお互いを「自分の居場所がない者同士」として支え合う文化も生まれてきた。
また、一部の顧客層にとってトランス女性はフェティシズムの対象となっており、その需要が存在することも事実である。
このように、主流社会で得られなかった承認や経済的手段を、性産業という場で補おうとする心理的・社会的力学が働いていると考えられる。
加えて、愛着形成不足による自己評価の低下やトラウマ症状は、本人の将来の選択肢を狭めてしまう可能性もある。幼少期からの不遇により十分な教育を受けられなかったり(学校でのいじめや不登校、退学など)、就職差別も相まって正規の職に就けなかったりすると、「他に選べる道がない」という追い詰められた状況で性産業に関与せざるを得なくなる ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC )。
この際、本人の心理的状態としても、自己肯定感の低さから「自分にはこの道しかない」と感じてしまうことも考えられるであろう。
以上のように、幼少期からの愛着やコミュニケーション形成の不全は、一連の心理社会的リスク要因(家庭崩壊、教育機会の喪失、メンタルヘルス悪化、貧困・ホームレス化など)と絡み合い、結果的にトランス女性が性産業に従事する割合を押し上げる一因に十分なり得ると考えられる。
仮説の評価:妥当性と限界
以上の議論から、幼少期~青年期におけるジェンダーに沿った愛着関係の欠如がトランス女性の性産業従事に影響するという仮説には一定の妥当性が見出せた。
トランス女性の多くが成長過程で家族からの十分な受容を得られず、不安定な愛着スタイルや深刻な心理的ストレスを抱えている傾向は研究によって裏付けられている( Attachment buffers against the association between childhood sexual abuse, depression, and substance use problems among transgender women: a moderated-mediation model - PMC )。
また、家族からの拒絶や社会的サポートの欠如が、ホームレスやサバイバルセックスにつながる具体的な経路も明らかになっている ( Through a Different Lens: Occupational Health of Sex-Working Young Trans Women - PMC ) (Unseen, part 4: Trans female youth face greatest risk of sexual abuse and exploitation | GBH)。
これらは本仮説を支持する傍証と言えるであろう。
発達心理学的視点から見ても、アイデンティティの確立期に自分のジェンダーを否定されることは「複合的な発達トラウマ」となりうるため、その後の人生でリスク要因として作用するという論理は十分考えられる。
しかし、この仮説には重要な限界や注意点も存在する。
